魅力ある図書館とは(「世田谷発~これからの魅力ある図書館をめざして」より)

昨年8月9日に世田谷教育推進会議「世田谷発~これからの魅力ある図書館をめざして」が国士舘大学世田谷キャンパス多目的ホールで開催されました。片山善博氏(慶應義塾大学法学部教授、元総務大臣、前鳥取県知事)の基調講演の内容を要約して、その一部を紹介します。

“魅力ある図書館づくり”に欠かせない住民の希望

“魅力ある図書館づくり”というテーマには、私もかねてから自分自身の問題として取り組んできました。魅力ある図書館というのは人によって違います。例えば異性を見たときに、ある人にとっては魅力的でも、別の人から見たら魅力的でないというケースもあるわけで、図書館にも似たようなところがあるかもしれません。「魅力ある」という表現はかなり個性が強いと思います。
図書館はどうあるべきかという議論があります。そのときに何か抽象的に図書館というものが定義づけられます。こうあるべき図書館というものを確立させて、それをめざそうという考え方もあるのですが、私はそうではなく一人ひとり、住民の皆さんがどういう図書館であってほしいというイメージを抱いて、理想的な図書館像を描いていくべきだと思います。もちろん考え方は人それぞれで異なり、すべての人の願いがかなうような図書館というのは無理があります。できるだけたくさんの住民の皆さんの希望がかなうような図書館にするというのが、実は地方自治体の役目だと私は思います。要するに理想的な図書館というものが既に抽象的にあって、それをめざすということではなく、一人ひとりの「こんな図書館であってほしい」という願いを集積したものが、これからの“魅力ある図書館づくり”につながっていくということです。
私は地方自治を専門にしてきました。大学を卒業してから自治省(現・総務省)に入りました。地方自治体が住民の皆さんのために良い仕事ができるためのお手伝いをすることが職務でした。「自治体が良い仕事をする」というのは、“魅力ある図書館づくり”と同じことで、大方の皆さんの願いがかなうような仕事だと思います。
私は地方自治を専門にライフワークとしてやってきましたが、図書館はまだまだ可能性を秘めていると率直に思います。現在、図書館のない自治体もあり、つくる予定もないというのは論外なのですが、つくる場合には大枠があります。例えば無償であること。本の貸し出しにお金を取ってはいけないというのは大原則です。そういった大原則を守れば図書館の中身をどうするかは、自治体が決められます。図書館法というものがあって、それに抵触しなければ、どういう図書館にするかは選択の仕方次第なのです。誰が選択するかというと、それは区役所、自治体ということが現実的と見られていますが、実は違います。自治体は住民一人ひとりの願いを把握して、それをできうる限り実現しなければなりません。今ある図書館をもっとこうしてほしいという一人ひとりの願いが一番の基礎になるわけです。自分のため、子供たちのため、未来のためにこんな図書館であってほしいということを一人ひとりが考える機会というのは本当に有意義だと思います。

「無料貸本屋」にとどまるわけにはいかない図書館

私や地方自治を専門にする者から見ると、今の日本の図書館は自治体の図書館、学校の図書館を含めて、少し粗末に扱われていると思いがあります。図書館というものはもっと重要視されなくてはいけません。図書館で働いているスタッフの皆さんにも、もっとリスペクトするべきだと思います。それは図書館業界の発展のためとか、図書館で働く司書さんやスタッフの皆さんの利害のために申し上げているわけではありません。私はかつて鳥取県知事を8年間務めました。自治体を経営した者の目で見て、全国の自治体の図書館、学校の図書館はもっと充実して、もっと有効に活用されてしかるべきだと思います。
「図書館とはなんでしょうか?」とはよく言われます。なかには「無料貸本屋」だと言う人もいます。確かに行けばただで本を貸してくれますが、「無料貸本屋」は決して図書館を高く評価している言葉ではありません。私自身は「無料貸本屋」であってもいいと思います。有料貸本屋であってはいけないからです。図書館は無償です。なんで無償かというと、義務教育も無償。これは社会の知的基礎部分として大切なことです。お金のある人だけが義務教育を受けられるとなると、格差社会がますます大きくなります。金持ちだけが教育を受けられるという社会は間違っています。親の社会的地位とか経済力に関係なく、子供たちは平等に無償の義務教育を受けられることが重要です。それは図書館も同じです。お金のある人だけが図書館で知識を得られる、情報にアクセスできるということでは、ますます格差が広がります。だから義務教育を図書館も無償であるべき。「無料貸本屋」であって当然だと思います。
しかし、「無料貸本屋」に徹していていいのか、というとそれは違う。図書館は無料貸本屋にとどまるわけにはいきません。「無料貸本屋」は図書館の重要な側面でありますが、もっといろいろな機能や可能性がある施設でなくてはなりません。子供を含めた一人ひとりの住民が知的に自立するサポートをするのも図書館の重要な役割だと思います。知りたいことがあったら図書館に行って本を探す、情報を探す。わからないことがあったら司書(レファレンス)に相談して、自分の抱いている関心事や疑問はどういう資料や本で解決できるかを導いてもらう。そういうことも図書館の大きな機能です。わからないことを解決する知的な拠り所が図書館なのです。そこには本や情報があり、司書がサポートをしてくれる、これが図書館の本質だろうと思います。
地方議会には実は議員のために議会図書館というものがあります。これは法律で決められていて、地方自治法第100条の規定で、地方議会には図書館を置くべしとあります。なにのために図書館があるのか? それは年4回しかない議会というのは暇だから…ということではないのです。議員は住民の皆さんのためにいい仕事をしなければいけません。いい仕事の基本とは、例えば区の予算とか、区長さんが提案する条例案とか、区役所の皆さんが精査してつくったものを、区民の立場に立ってきちんとチェックすることです。直接職員を呼んで問い質す場合もありますが、事実関係を自分自身で調べる必要もあります。議会図書館はそういう場合を想定して設置されているのですが、これは議員の知的自立をサポートする施設でもあるわけです。

さまざまな可能性を秘めた図書館

私は図書館がもっと活用される可能性を秘めていると思っています。まずやってもらいたいのは、郷土の情報とか資料、歴史、文化など、そういうものの集積の場所にすることです。近年、全国では市町村合併があり、役場がなくなったりしました。その合併の過程で貴重な資料が散逸しました。新しい市になるのだから、今までの課税台帳はいらないと捨てた市町村もあります。捨てられた台帳には明治初めの地租の台帳もありました。今の時代には必要ないものかもしれないけれど、日本の税の歴史を調べるには貴重な資料でした。当時、鳥取県知事でしたが、これを知ってすぐに県の公文書館で引き取りました。実は全国の自治体の中には公文書館がないところが多いのです。そうすると引き取り手がないですから、捨ててしまえということになる。そうならないために図書館を活用すればいいのです。郷土の歴史、資料、文化、伝統芸能とか、有形無形の文化財もありますので、そういうものは図書館でとりあえず保管・管理してもらいたいと私は考えています。そうしなければ郷土は根なし草になってしまいます。そして、それは国家も同じです。国家にも歴史、文化、伝統があって大切に保全していかなければなりません。そういう役割を図書館にはぜひ担ってもらいたいと思っています。
最近、従来の行政ではとらえられないようなものが行政の課題として出てきました。例えば静岡県の西部ではマイノリティーの皆さんへの施策が重要になっています。親がポルトガル語しかわからないというような家庭への対応には大変苦労しているようです。これが北欧だとマイノリティーに対する施策は図書館が担っています。イスラム系の移民が多いデンマークでは、デンマーク語に習熟してもらうための講座や教室を図書館がやっています。例えばトルコ人の多い地域であれば図書館はトルコ語の新聞を取り寄せます。母国の情報を知りたいトルコ人は足しげく図書館に通うようになります。そういう人たちを対象にデンマーク語の指導から、地域でのゴミの出し方などの生活のルールを学んでもらうということに取り組んでいます。日本の行政は縦割りですから新しい組織を設けて、そういうことに対応しようとするのですが、私は図書館でやったらいいと思います。縦割りでいろんな施設を設けるより、図書館を拠点にマイノリティーの皆さんに対応すれば一石二鳥ではないでしょうか。
これもデンマークのケースですが、子供たちへの衛生指導を図書館が行う場合があります。例えば歯磨き。図書館に集まった子供たちに保健師さんが歯磨きの指導をします。そのときに司書さんと連携して、歯磨きに関する絵本を並べておくわけです。歯磨きを終えた子供の中には、もっと歯磨きのことを調べようと絵本を持ち帰る子もいるわけで、それにより調べ学習の習慣を身につけるとともに読書意欲を高めることにもなります。
最近、ある自治体の町長さんから「放課後児童クラブの場所を確保するのに困っている」と言われたので、図書館をお勧めしました。放課後児童クラブの設置は地域住民の理解を得るのが難しい状況にあります。やはり子供は騒がしいですから。図書館なら会議室がありますから、そこを放課後児童クラブとして開放すればいい。もともと本を好きな子供は自分で本を選んで読むでしょうし、本好きでない子供には少し手を加えて本好きになるようにする。小さい子供でしたら読み聞かせをしてあげてもいいでしょう。本嫌いの子供が本好きになったら素晴らしいことです。放課後児童クラブが読書スクールにもなるかもしれません。

打破すべき日本の縦割り行政

このように図書館にはいろいろな活用法があるのですが、これを阻害しているのが日本の縦割り行政なのです。放課後児童クラブは厚労省から補助金が出るから文科省系統のところでは使えませんといった縄張り意識があるのですが、そういうものは取り払わなければなりません。総合行政主体というのですが、いろんな行政をひとつの自治体で切り盛りするわけですから、国の行政は縦割りになっていても、自治体ではそれを全部ひとつに受けとめて、自分たちがやりやすいようにすればいいのです。それにより図書館の役割を広がるはずです。
もちろん、そのためには図書館のスタッフや予算をきちんと充実させていかなければなりません。そこをおろそかにあれもこれもとなったら、それは竹槍で戦争をするのと同じことになります。ちゃんとした行政サービスを行うには、人材と資金の確保は欠かせません。図書館でなにが一番重要かといったら、私は司書さんだと思います。もちろん図書館というのは空間があって、スペースがあって、本がなければいけません。でも、それだけではだめです。ちゃんとそこを切り盛りする人が必要だと思います。
鳥取県知事のときに、県庁内に図書館をつくりました。それまで県庁内に図書館はなかったのですが、あえてつくりました。図書館をつくろうと言ったら、職員たちは驚いて反対しました。理由のひとつはスペースがないということ。そして、図書館などつくったら職員は暇なのでないかと住民に誤解されることを危惧したためです。全然とんちんかんなんですね。暇だからそこで小説を読みなさいということではないのです。職員たちは日々、地域の問題を解決するための施策を考えなければならない。例えば不登校の子供の問題ですが、それまでは文科省の指導を仰ぐ。補助金とかを出るのを待つばかりでした。そんなことをしていたら問題は解決しません。不登校の問題は現場で発生しているのであって、霞が関で発生しているわけではないのです。霞が関の役人が全部知ったような顔で不登校対策を考えてもうまくいくはずはない。現場で考えなくてはいけないのです。
とはいえ職員たちも徒手空拳で考えただけでは妙案は浮かびません。そこで外国に目を向けてみました。フィンランドでは日本でいう教頭、副校長をキャップにして、そこにメンタルケアの専門家がついたチームがありました。クラスで不登校が出ると担任の先生からの連絡で、そのチームが問題の解決にあたるわけです。担任はクラスの授業に専念できるわけです。日本では担任がきりきり舞いです。家庭訪問もしなければなりません。そういう外国のケースを県庁や市の職員が自分で勉強して、もちろん文科省からの資料も参考に、自治体として解決策を探れば、より効果的ではないかと思います。自治体の職員も考えないといけない。考えるには資料や情報が必要。だから、その資料や情報とその職員をつなぐ橋渡しをする司書さんが必要になるわけです。
ところが県庁にはそういうものがなかったから、職員にあなたたちはどうやって施策を考えているのかと質問したら、「本省に聞いています」と。本省というのは、例えば農林水産部なら農林省、土木部なら国交省というように、自分の仕事の系列の中央官庁のことなんですね。「本省と言うなら、あなたたちは出先機関か。いつから県庁は霞が関の出先になったんだ」と皮肉を言ったこともあります。
図書館をつくるスペースがないという反対意見には「本は置かなくてもいい。優秀な司書と、インターネットを使える環境があればいい」ということで対処しました。そうしてできた図書館の司書さんにフィンランドの教育についての資料がほしいと依頼したら、2時間くらいでリストをつくってくれました。そのリストをもとに国会図書館などから取り寄せてもらいました。図書館は当面そこに資料がなくても用は足りるのです。肝心なのは優秀な司書だと思います。
自治体でも考える力を持つということは非常に重要なのです。今でもそうですが、日本の行政は縦割りになっていて、霞が関の各省と都道府県は結びついていて、それぞれ関係の役所の施策をそのままもらい受けて、それを咀嚼して現場に移していこうというやり方が多いのです。それを上意下達と言ったりするのだけど、そんなことではいけません。地域のことは地域の住民の皆さんが責任を持って物事を決めていく、地域のことは地域の皆さんの考えに沿って、責任を持って決めていくというのが、地方分権の時代の本質です。いまだに霞が関の意向を受けて、霞が関の言うとおりにやっていくなんていうのは変えなければいけない。それを変えないから現場の問題がなかなか解決しづらいのだろうと思います。職員たちの意識改革を促し、考える力を養うための知的な拠点が図書館なのです。そこには司書が重要だということです。

専門職の皆さんが力を発揮できる環境づくりが大切

公務員は一般職が多いのですが、専門職もいます。司書もひとつの専門職ですが、ほかに工業支援課の研究員、農業支援課の研究員、福祉の現場だとケースワーカー、児童相談所の児童相談員、消費生活相談センターの相談員など、さまざまな専門職がいます。ところが、そういう専門職がきちんと処遇されていません。冷遇されているとまでは言いませんが、厚遇は絶対にされていない。日本では一般職に比べて専門職を軽く見る傾向があり、これは組織にとっては大きな損出だと私は思います。多様な仕事があって、多様な仕事をこなすのにふさわしい専門職をせっかく配置しているのに、その専門職の皆さんの知識や経験、意欲などを導き出すことに失敗している。これを変えるよう、私は鳥取県では専門職の皆さんが遺憾なく力を発揮できる環境づくりを心がけました。
実は鳥取県の県立図書館は「ライブラリー・オブ・ザ・イヤー賞」をもらいました。知事が図書館に力を尽くしたからだと言われ、それは嬉しいのですが、実は必ずしもそうではなくて、私がやったことは図書館の司書さんたちの持っている潜在的な能力を引き出すというか、その人たちが力を発揮してくれる環境をつくったというのが真相です。県立図書館は全国に先駆けていろいろなことをやったのですが、それはすべて司書さんたちが自分たちで考えたり、よそで勉強してきたり、学んできたことばかりです。
ほかの自治体のことはよくわかりませんが、鳥取県の県立図書館の館長は図書館に精通していない人がやっていました。県立高校の校長に運悪くなれなかった人を館長職として就いてもらうような人事でしたから、下で働いている人はなかなか士気が上がりません。図書館は金ばかりかかる、本なんかに金をかけてどうする、来る人は退職して金も暇もあるような人ばかりで、なんでそんなのに本を買ってあげなければならないの、というような理解度だったのです。私は司書さんを中心に、どんどんアイデアが出て、それを応援する環境をつくっただけです。そうしたら鳥取県の図書館は良くなりました。県立図書館の位置づけを自分たちで、専門家を交えながらデザインを描き、県内の図書館環境を良くしようと努力したわけです。県内の市町村には図書館がないところもありましたから、そういうところに館長やスタッフが出向いて町長さんに直談判をして、図書館をつくるように提案もしました。鳥取県の場合は遠方の小さな図書館も多いですから、県内全体でバランス良く図書館環境が整備されるようにも努めました。県立図書館から遠い県民でも県立図書館が利用できるようになったのも、司書さんたちが相談をして決めたことです。私のやったことはそういうアイデアが出たときに、力仕事で予算や人をつけただけです。

司書が力を発揮できれば図書館は楽しくなる

専門職である図書館の司書をきちんと処遇することは大事なことです。その人たちが誇りを持って良い仕事をする、そういう意欲を持てるような環境をつくらなくてはなりません。ところが現実は逆になっているケースが見受けられます。どういうわけか、司書さんは最近、非常勤化しています。本来正職員だったのに非常勤に変わっている。もしくは指定管理者制度により外部委託されています。
最近聞きましたが、以前は都立高校の学校図書館は正規の司書さんが配属されていたのに、だんだん委託に変わっているそうです。都には都の事情があるのでしょうが、オリンピックで巨額の金を使うというときに、オリンピックに比べたら何桁も違う予算を小まめに削るというのはバランスを欠いているのではないかと思います。耳かきで一生懸命お金をかき集めて、スコップでオリンピックのところに持っていくという財政運営には疑問があります。オリンピックがいけないといわけではありません。オリンピックの有効性は高いですが、その陰で本当は大切な学校図書館の専門職の皆さんのポストが失われています。結果的には数年単位の非正規職になってしまいます。それまでは誇りを持って仕事ができる都立高校の学校図書館司書だったものが、細切れの民間事業者のところの職員になってしまう。民間事業者の職員になることはいいのですが、細切れになることは問題です。専門職の皆さんが、その専門的な知見を遺憾なく発揮できる環境が大切なのに、それに逆行してしまうからです。
私は鳥取県知事になったとき、学校図書館のことは非常に気になりました。所轄は教育委員会ですから、知事本人に直接的な権限はないのですが気になりました。私の出身地である岡山県は従来図書館に力を入れていました。私が卒業した高校には正規の司書さんがいて、図書室がすごく楽しかったのです。積極的な司書さんで授業と連携して国語だったら、その教科書に載っている本を揃えてくれていました。教科書には全文ではなく、抜粋文しか載っていません。作品に興味のある生徒は図書館で借りて、全部を読む。私もそうしていました。それによって知らず知らずのうちに本を読む楽しさとか、本を読むことによって知識を広げるということにつながったのだろうと思います。ですから、高校の図書館には必ず司書がいなければいけないと思っていたのですが、鳥取県は違っていました。司書のいる学校もあったのですが、非常勤で処遇の悪い環境でした。図書館に司書をおいたらどうかと教育長さんに尋ねるのですが、なかなか前に進まない。教育長は県の財政当局と教育委員会のバックアップがないと動けなかったわけです。調べてみたら教育委員会に司書がいませんでした。教育委員会の指導主事とか、教員上がりの人と事務職の人が中心ですから、学校図書館のことには関心がない。本当は教育委員会の中に学校図書館の司書を配置して、各学校の図書館環境、人的な配置も含めて目配りができる体制にしなくてはなりません。学校図書館のことは重要だと思っている人はたくさんいるのですが、予算や人事は教育委員会が決めますから、教育委員会の中枢部に学校図書館への理解、造詣のある人がいないというのは非常に致命的なことでした。教育委員会の中には教員ばかりではなく、学校図書館や公共図書館で勤務したことのある司書を配属するべきだと思っています。
私が知事として教育委員会に対して自分でできるのは、教育委員の任命でした。教育委員は4年の任期がありますから、私は前の知事が任命した教育委員を順次入れ替えました。以前図書館長だった方にも図書館行政を充実させる前提に教育委員への就任を依頼しました。5人の教育委員がいたのですが、2人変えただけで随分変わりました。学校図書館の問題も、公共図書館の問題も実は教育委員会の中に、人的処置を含めた図書館を重視する体制ができるかが課題となるわけです。

自治体の財政危機による弊害

最近、財政が厳しくなったこともあって、多くの自治体では図書館の予算を切り詰めています。それは図書館の予算が切り詰めやすいからです。例えば学校の運営経費を半分にしたら、学校はやっていけません。しかし、図書館の蔵書購入費を半分にしても、それで急に図書館がみすぼらしくなるということはありません。だから、削減しやすのですが、これはボディーブローのようにきいてきます。10年後には図書館も色褪せます。本が色褪せるだけではなく図書館が色褪せます。
蔵書購入費をケチるだけではなく、人件費もケチることになって、司書さんが正規の職であったものが非正規になり、これで1人当たり400万円ぐらいの人件費カットとなれば、財政で予算をつくる人にとっては魅力的なのしょう。やがて全部外注にしてしまう、図書館全体を指定管理制度で外部委託にしてしまうと、維持管理費はさらに減ります。外部委託にすると人件費はさらに切り詰められます。指定管理制度でも司書の資格を持った人が雇われますが、賃金は気の毒なくらい安い。しかも、1年単位の契約ですから、身分的にも安定しません。
どうして図書館はそんな状況になったのでしょうか? 図書館は自治体の財政を揺るがせるほどの金食い虫ではありません。デラックスな図書館を建てて維持管理費にあえいでいるところもあるでしょうが、きちんとした運営をしてきた図書館が財政破綻を導くような原因をつくっているとは思えません。
1990年代になって日本は不景気になりました。バブル崩壊後、景気対策の一環として公共事業が推し進められました。政府は当面はお金がなくても借金で公共事業をやりなさいと。公共事業をやると景気が良くなって税収が増えるので借金しても大丈夫だと。あとは政府が面倒を見てあげるという甘言もあったのですが、結局景気は良くなりませんでした。自治体の借金の返済を政府が面倒を見るとは、地方交付税交付金を増やすということだったのですが、今になってもまったく増えていません。政府は借金の返済分は交付税でちゃんと上乗せしているというけれど、それはサラリーマンにとっての残業代の補填みたいなもので、本俸が大幅にカットされているので、トータルでは税収は減っているのです。
財政で疲弊した自治体は経費を削減しますが、その際、一律に切り詰めます。公共事業で予算が膨らんだところもあるのに、一律カットされるわけです。
自治体の財政危機に政府が打ち出したのが市町村合併です。合併したら合併特例債がもらえて、いろいろなものがつくれると。その合併特例債も借金だけど返済は政府が面倒を見ると。それにまた乗ったのですが、やはり交付金は増えませんでした。詐欺に遭う人は何回も遭うんですね。

民意でつくる理想の図書館

私は自分の終の住処には良い図書館がそばにあってほしいと思っています。その図書館に行くと、自分と同じような知的好奇心を持った人が何人か寄り集まっていて孤独感を味わうことがないとか、生きる張り合いをもてるとか、そんな図書館を理想像として思い描いています。それをどうやって実現するかは地方自治の課題です。地方自治は地域の住民が主役です。地域の住民の皆さんが払った税金は地域が望むような形で使われるのが、地方自治の基本です。自治体の役目はその願いをかなえることですから、できるだけ地域の皆さん、納税者の皆さんの意見を把握しなければなりません。自治体がまずやるべきことは、住民の皆さんの意見を聞くことです。ところが日本の自治体はこれができていません。
首長が住民の意見を聞く場として青空県政、車座集会などが行われていますが、あれは大体やらせです。集まるメンバーは首長をヨイショする人ばかりを集めています。
古来、民主主義というものは、重要なことを1人が決めるのではなく、複数の人で決めるのが経験則です。例えば、会社の経営方針は取締役会で議論します。会長や社長が1人で決めるのではないのです。裁判所も複数の裁判官が相談して判決を下します。遠山の金さんや大岡越前みたいなのは本当は困るのです。人間は感情の動物です。だから複数の人間が集まって冷静に相談しながら決めなくてはなりません。
物事を決めるということは、決めたことに不満のある人が絶対に出てきます。決めるということは選択です。その選択をしたら、ほかの選択肢は捨てるわけです。捨てられた方は気に入らない。それでも納得してもらわなければならないから、事前にできるだけ意見を聞いておく。意見を言う場があった上で決められたことだから仕方がないという状況をつくるわけです。これが合意形成です。
図書館は指定管理や正規・非正規といった問題を抱えていますが、実は市民の皆さんがまったく知らないところで話が進められています。図書館をどのようにしたいかという意見がなかなか届かないというのが実情です。それは地方自治が機能していないということで、そこから変えていかなければなりません。
教育委員会にも問題があります。アメリカの教育委員会には市民や保護者の広場があって、教育委員会がやることを保護者や市民が議論します。文句もたくさん出ますが、それを聞いた上で委員たちは議案を処理していきます。日本の教育委員会議は公開を原則としていますが、本当は秘密会議に近い。都立高校の図書館の司書を委託するという場合でも、そのことについて都民が意見を言える場があってもしかるべきなのですが、そういうプロセスなしに決まってしまう。こういうことを変えていかなければならないと思います。

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